8月15日という日・終戦記念日

今日は、8月15日。終戦記念日である。

どうもざわざわとして、落ち着きがない感じがするのは気のせいか。


父の一番上の長男は、20歳のとき、72年前の今日、グアムで亡くなった。終戦記念日の日に。

幼い頃から見てきた写真。宮崎の父の実家の仏壇の上で、かなりの男前のその長男は、軍服を着て、まっすぐに優しそうな目をして写っている。若すぎて、まだ少年のような姿。

なんで、よりによって戦争が終わった日に亡くなってしまったのかとおもうこともあった。

祖母からその気持ちを聞いたこともないが、どんな思いだっただろう。誰も長男の話をしてくれる人はいない。でも、確かに生きていて、戦争にいって、生きて戻ってはこなかった。多分、この長男さんが生きていたら、私はもしかしたらこの世に生まれていなかったかもしれない。父は、10人兄弟の一番下で、次男とともに唯一、農家にならずサラリーマンになった。だから、故郷を離れ、転勤先の岡山で、母と出会い私が生まれた。長男さんが生きていたら、まったく違う世界が広がっていて、こうやって話ができたかどうかと、笑いながら、宮崎に帰郷にしたときに、三男の後継の息子にあたるいとことそのような話になった。でも確かに、生きていたその長男さん。会いたかったな。


幼いときにお正月やお盆に帰省したとき、父の実家が、航空自衛隊の駐屯地の近くだとは気がつかなかった。先日帰った時に、あまりの騒音にびっくりした。とんでもない音で戦闘機が飛び立っていく。日に何度も。なんども。田んぼしかないとおもっていたその背景の裏で、こんな事情があったなんて、今まで知らなかった。田舎で、星が綺麗で怖いくらいで、海水浴は青島で幼い時の田舎のイメージは、いいイメージしかなかった。田舎といってもいろいろあるのだと今になって知った。ここでも、戦争というものの影を感じた。


沖縄の三線を習い始めた頃、「ベトナム戦争のとき、沖縄の米軍基地から、戦闘機が飛んでいたんだよ」と沖縄出身の方から聞いた。そんなことがあったなんて、全く知らなかった。日本から戦闘機が飛び、ベトナムを攻撃していたのである。直接手を加えてなくても、戦争に加担しているようなものだとおもった。ベトナムを旅したときに NO USA のステッカーを貼ったタクシーのお兄さんのことを思い出した。知らない事が多すぎる。

昨年、初めて沖縄の南部にある、平和祈念公園へ訪問した。三線仲間のおばさんのお父さんが「平和の礎」に名前が刻まれているので、ご家族とご一緒させていただいた。車で降り立ったとたん、鳥肌がたち、心がざわざわとして、なんともいえない悲しみに包まれたのを覚えている。どれだけの人がここで亡くなったか、この先の崖から飛び込んだ人がたくさんいたか、、、魂がまだあの場にたくさんいたのだとおもう。

そのあと行った伊平屋島で、沖縄出身のご夫婦に出会い、帰りに那覇まで送ってもらった。沖縄では、八重山で自衛隊の基地がたくさん作られていること。高江のヘリパットのこと。私が知らない沖縄の話をたくさんしてくれた。本土では流されていない情報がたくさんたくさんあった。

ここでは、まだ戦争は終わっていないのだ、とおもった。そして、ここはもともと琉球王国であり日本ではなかったところ。なのに、日本の勝手な振る舞いで、たくさんの基地や飛行機が飛び交っている。この現実はなんであろう。あんなにひどいことがあったのに、これでもまた自然を壊し続け、

沖縄の人たちを苦しめている。今度はここから戦争が始まってしまうのかと不安になった。


戦争というものが終わって72年たつ。

もう、72年とおもうのか、まだ72年なのか。

平和という時間のなかで、自由に生きているとふと、そのような戦争の時代があったことを忘れ、我が我がという気持ちが増えていく。神戸の震災を経験し、空襲はこんなものだったのではとか、みながリュックを背負い電車に乗っているのを見て、戦時中はこんな感じだったのではとおもい、贅沢ってできないなあなんておもったが、時が過ぎたら、その時のことを忘れて、無駄なこともたくさんしている。

足るを知る、という言葉を思い出し、日々を見直そう、あるもので、どう生きるかを考えよう。

そうおもってもつい日常の流れに飲み込まれそうになる。平和があたりまえとおもうのは感謝の気持ちが足りないのかもしれない。戦争だけは、するものではない。誰もが少しでも、日々生かされているのだと思えたら、戦争は生まれないと思いたい。よしあしの2元論で話をするから喧嘩がおきる。

両忘(りょうぼう)禅の言葉で「両方忘れる」という言葉がある。 白いか黒いか、良いこと悪いこと、好きなこと嫌いなことなどの両極を忘れる。 どっちが正しいのかなどの二次元的な考えにととらわれない。受け入れる。そんな境地になれば、争いなど起きないのであろう。


ふと、祖母が生きているとき、モンペを履いていてそれがとても古びていたのを思い出した。「近所の小学生がきてな、劇で戦時中の格好をするからそのモンぺを貸して言われたんよ、失礼やろ」と笑っていた。清貧で、どこまでも真面目で、ひたすら田んぼと畑をしていた祖父と祖母。早朝、田んぼの水を見回る祖父のあとをついて歩いたこと。畑のトマトをとって食べた時のこと。祖母と枝豆を収穫を手伝ったこと。大きなスイカをみなで食べて、暑さを凌いだこと。。。多分、あの時の記憶は、強烈に自分の中に、そして祖父母のDNA は見事にわたしにも引き継がれているようで、いま、農家に近いことをやっている自分がいる。暑いあつい夏の思い出が、私がこれからやっていく原点かもしれない。


終戦記念日。

いろいろなことを思い綴ってみたが、、、

平和を願い、いのちの源に帰る日でもあるのかなとおもった。祖父母を想い、両親、弟を想う。

生きとし生けるものがしあわせでありますように。




  • 伊平屋島の海と空 どこまでも美しい海であってほしい 












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