震災2323。実験的な日々。

今日は1月17日。阪神大震災から23年がたった。

大学院1年生、23歳で被災。実家はすぐに水や電気が使えたため、避難所とかし、友人知人がお風呂に入りに、ご飯を食べに来たりして常に合宿状態であった。いまおもえば、大変だったとおもう。いろんな人がうちにきてご飯を食べたり寝たりしているのだから。振り返れば、そんな時間も楽しかったねと母といいあった。

あのときは必死だった。困った人がいたら助ける。坂茂さんの紙の住宅をたてるボランティアをして、ベトナム人のこどもたちが喜んでくれたこと、崩れて壊されてしまうビルでアーティストが絵を描くので、一緒に描くボランティアをしたり。その頃は、勉強していた記憶はなく常に誰かと何か役に立つことはないかと行動していたようにおもう。デザインが役に立つ場面もあることに、気づかされたりしたことなどをふと、おもいだす。

あのとき、生きていればなんとかなる、贅沢しないでも、いい服が着れなくてもいい。足るを知る。

とおもっていたことを、日頃はわすれがちになる。一年に一度、この震災の日を迎えると身が引きしまるおもいだ。


葉山と神戸を行き来していておもうこと、気づくことがある。神戸にいるととても1日が長いということ。食事をつくるのは昼と夜。そのあいだに、食材を仕入れに産直にお買い物にいったり。洗濯したり。南向きの実家は、昼間は暖房がいらないほど暖かく、気持ちが安らいで、ひるごはんのあとはうとうとしたり。そのあいまに、母と話をしたり、TVをみて笑ったり。

今日は、ビオラを購入してきたので、母と一緒に寄せ植えをしたり。文字を書くことができなくなりつつ母に、今日のできごとを一言だけでも書いてみたら?とそそのかしてみたら、まじめに数行書き始めたり。。。どうやらわたしの名前の漢字が合っているか気になっている模様。ひらがなでもいいのだよ。。。手の運動のため広告チラシで大きな折り鶴を一緒に折ったり。

葉山の生活とはまた違う時間が流れている。


わたしがこの生活をはじめると話したとき、いろんな意見がありました。

神戸と葉山?1か月で一回でいいのでは? 移動にはお金かかって大変だね。

自分の生活も大事に。介護は一人で抱えないように。この年で親のそばでいることはいいことだね。 とかとか・・・ 意見はその人の価値観、大事にしていることは何かが垣間見れておもしろかったです。本当にさまざま。何を言われようと助言、意見はウンウンとありがたく受け取ります。

が、決めて実行するのは自分です。いまこの生活をやってみなくちゃわからない自分がいて、どんな気持ちになるか、どんな感情が生まれるかを確かめたい。想像しているだけでは何もはじまらないし、時は過ぎていくばかり。正直えいやと神戸に戻る勇気はないので実験的生活をやってみている。

このペースがよければしばらくこれでもいいし。無理だとなればまた変えればいいしって感じ。

実験的な生活が私らしいと笑う友人もいた。兎に角、まあ、、、今の自分にできることは何かを行動しているのだから、これはこれで、しあわせなのではとおもう。


やってみておもうのは、両親が子供のころにしてもらったことを今度は自分がしたらいいのだと

単純におもうようになってきたこと。自分が犠牲になっていると、おもうのは違う気がしている。

気持ちが、暗く重くなっている時間なんてもったいない。。。

靴下をはかせる、手をひいてあるく、着替えを手伝う、ごはんをつくる、片付ける、、、

どれも幼いときにわたしがやってもらっていたことなんだなっておもう。

いつもあたたかなご飯をつくってくれていたから、同じようなことをしようとおもうし。

いつも笑顔でいてくれて、元気に過ごせたとおもうから笑顔でいようっておもえるし。

わたしにはこどもはいないけれど、おおきなこどもがいるとおもえばっておもいはじめている。

改めて、いま愛とは何かについて学んでいるような気がしている。

書くとはずかしいような言葉なのだけれど、これから生きていくうえで大事なことを、再び学んでいるような気がしている。たぶん私がいままで親孝行をしてこなかったから、ちゃんといまなさいと言われているようにもおもうし、それがいまできるのだからありがたい日々である。

鶴の恩返しではないけれど、人生のなかでようやく恩返しをしていく時期になってきたのかもしれないなっておもう。恵まれていることに感謝して・・・今日も1日、両親にありがとうである。


そして、震災で亡くなった方へご冥福をお祈りいたします。今を生きている方へ、忘れられない、忘れたくない、たくさんの想いがあるでしょう。少しでも笑顔になれる時間が増えますようにと、おもっています。



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